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母方の祖父の軍歴証明書を取り寄せた(概要編)

今年で40歳になるのをきっかけに、母方の祖父の軍歴証明書(旧陸軍兵籍簿)を取り寄せました。

 

生前はいっさい戦争の話をしなかった祖父。

 

本人も語りたくない事もあったんだろうなと思うんですが、亡くなってからもうすぐ20年だし、自分も人生の折り返し地点にきた区切りでもあるので、取り寄せてみることにしました。

 

そしたら思いの他かなり時間と手間がかかった、、。

 

しかも最初に届いたのは、コレですよコレ。

 

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たったの3行かい!

 

1ヶ月近くかけて必要書類を準備した結果がコレかよ、、。愕然としましたね。

 

結局は調べ直してもらって、全ての記録が出て来ました。

 

すぐに記録が見つからなかったのは、出征の1週間前、祖父が婿養子の形で結婚していて、陸軍の兵籍簿には旧姓で記録が残っていたからです。

 

で、やっとこさ手に入れた結果がコレ。ちっこい字でほとんど読めないよ!

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なんとかがんばって解読してWordに全文書き起こしました。兵籍簿の記録と母から聞いた話をつなぎ合わせて、祖父の戦争はどんなものだったのか、再現したいと思います。

 

題して「祖父の太平洋戦争、一兵卒の記録」です。

※ほぼ東南アジアの行軍歴なので祖父の大東亜戦争としたほうがいいかも。


 

おじいちゃんは福島県で11人兄弟姉妹の4男として生まれました。

 

男6人、女5人!すごいですねー。

 

そしてなんと男6人は全員戦争に行ったけど、誰ひとり死なずに帰ってきた。奇跡、奇跡!

 

なんたって、おじいちゃんは出征1週間前に結婚してますからね。戦争で死んでたら、家族全員生まれてないよ!!

 

注)あえて軽いノリで書いてますが。気に障った方がいたら申し訳ありません。

祖父の壮絶な戦争体験、そして無事帰ってきてくれなかったら家族の誰ひとりとしてこの世にいなかったこと、決して孫に語ることのなかった戦争体験など、祖父の気持ちを考えると泣けてきてしまうので、あえて明るく書いてます。お許し下さい。

  

昭和18年

27歳のときに臨時招集により工兵第二連隊補充隊に補充兵として徴兵されます。

 

この補充兵と言うのはですねWikipediaとかで調べるとわかりますが、初めの徴兵検査のときは「こいつイマイチ」という感じで、最初は採用されなかったけど

 

「やべー、やべー、人足りねーよ!」

 

という感じで、急遽投入された人たち。

 

いまでいうとソフト開発のデスマーチの最後の方に投入されるあの人達のことですよ。

 

急ごしらえの仕様書とテスト項目書だけ渡されて、よくわからんまま必死にテストって言われる人たちと一緒ね。

 

そんなんで人の生死が関わる戦争に突っ込まれるんだから、悲惨というほかない。

 

今も昔も、ブラックな組織はやることが変わってない。

 

で、仙台で工兵第二連隊補充要員として編成され、船でフィリピンまで運ばれます。

 

その後シンガポールにいって、マレーシアで任務。昭和18年の11月に、その任務中に怪我しちゃったので、クアラルンプールの病院に入院します。

 

なんの怪我で入院したのか、なんと記録が削除されて判読不能、、、。

 

3ヶ月ほど入院生活を送り、翌年昭和19年退院したら即復隊です。

 

昭和19年 

マレーシアを抜け、タイを越え、ミャンマーも通り過ぎて、えっちらおっちら中国とミャンマーの国境付近(中華民国雲南省芒市着)までいって、中国軍と交戦。

 

芒市及龍陵付近の防衛戦に参加と記録には残ってます。

 

まぁ、おじいちゃんは工兵だったので後方支援部隊だったと思うんですね、でもこの戦闘に参加した人の手記とか読むと、かなりの激戦。犠牲者も連日のように出ています。

 

どうも九州出身の部隊が精鋭部隊だったらしく、その部隊は中国軍と何度も戦闘を繰り返し犠牲者もかなりの数とのこと。

 

じいちゃんも、ここで命を落としていたとしてもおかしくない、、、。

 

で、今度は中国とミャンマーの国境から離れてまたタイに入りマレーシアに入り今度は、ベトナム方面へ移動します。

 

すげー移動距離だなこれ。徒歩か列車でしょ?

 

昭和20年

ベトナムでは歴史の教科書にでるような作戦に参加してることが記録からわかります。

 

明号作戦 - Wikipedia

 

いろいろ詳しいことは調べればわかりますが、つまりはフランスと共同統治してたインドシナから、そのフランス軍を追い出すって作戦です。

 

人によっては、インドシナを長年支配してたフランスを追い出して、アジアの独立に貢献したー!みたいなことになってますが、どうもフランス軍がいなくなったので、スキを狙って独立したという感じ。以下の参加国が次々に独立宣言をします。

 

ベトナム 1945年3月に独立宣言

カンボジア 1945年3月に独立宣言

ラオス 1945年4月に独立宣言

 

で、おじいちゃんは、昭和20年8月14日、そのままベトナムで終戦を迎えます。現地の人たちからの報復も経験することも無く、母の言葉を借りれば、「その辺をフラフラしていた」ときにフランス軍の捕虜になった」とか。

 

これが、満州とかソ連国境近くだったら、現地の人たちからの報復、ソ連軍の侵略と大変なことになっていたでしょう、、。

 

その後香港に移送され、収容所生活をしました。

 

昭和21年

収容所から開放されたのは、終戦の翌年。8ヶ月感くらい収容所生活をしたことになります。

 

昭和21年5月、香港から広島の大竹港に引き上げ、そこで除隊、招集解除となります。

 

このとき既に30歳になっていました。

 

引き上げ船の中でマラリアにかかり、帰国後もマラリアの後遺症に苦しめられたそうです。

 

参考資料

引揚援護庁 - Wikipedia より。

 

大竹引揚援護局の写真

 

 


 

いやまぁ壮絶ですね、、。

 

母の話では、母が小さい頃祖父は酒に酔ったときには、戦争を思い出して声を出して泣いていたとか。

 

工兵だったので橋に爆弾を仕掛ける作業をしたらしいですが、その爆弾で中国人のおばあさんが吹っ飛んじゃって、そのことをいつまでも後悔していたと。

 

戦争という行為には全く合わない性格の人が、戦場に無理して連れてこられたせいでしょう。

 

それにしても祖父の軍歴を読んで思うのは、軍指導部の無能さ、、。だって戦線長すぎるでしょ?

 

福島の田舎から補充兵を引っ張り出して、船でフィリピン、シンガポールと経由して、陸路はるばる中国とミャンマー国境の山奥で局地戦。戦争末期には、フランス軍とインドシナの支配権を小競り合い。

 

何この無計画さと、戦線の長さ、、、。

 

戦争といえば「信長の野望」くらいしかやったことありませんけどね、これだけ戦線伸びてたら補給もままならないし、だいたいアジアの各地で小競り合いしてどうするのよ。

 

そこ戦略上重要?

 

防衛線を守りつつ後方の補給ラインも確保するっつーのが王道なんじゃ、、、?

 

まぁ私は戦闘のど素人なので、いまだから言えることかもしれませんが、、。

 

ただ、この祖父の体験を読んで思うのは、国家はいとも簡単に一人の人の人生の貴重な時間が奪うということ。戦争という名のもとに。

 

「◯◯国が攻めてきたら、俺が戦ってやる!」なんて勇ましい意見を持っている人がいたら、是非本当に戦争を戦ってきた人の記録を読んでほしい。

 

本当に戦争に参加できる覚悟ある?これが現実ですよ?

 

とはいっても、今の現代的な戦闘には、いきなり素人を徴兵してもほぼ役に立たないので、俺が戦ってやるなんて言っても、まぁ無理ですが。

 

そのうち、軍歴証明書(兵籍簿)の入手方法の詳細と必要書類についてもまとめたいと思います。

 

私と同じように軍歴証明書(陸軍兵籍簿)を手に入れようと思っている方の参考になればと思います。